橋本治戦記

橋本治さんの遺作にして未完の大作「人工島戦記」を、如何に読み終わらずに読み続けられるかチャレンジする日記です。

20220717「人工島戦記」第に部読み返し

平日に仕事が忙しくて全く本を読む時間が取れなかったりすることが続くと、何か自分の中で読書の感覚がおかしくなってくるというか、「あれも読みたいこれも読みたい」とやたらと本を買いまくってみたり、「あれも読もうこれも読もう」と次から次に本を数ページ読んでは次の本もひらいてみたりみたいなことを繰り返してたり、昔買ったはずの本を探してロフトの奥に積み上げてある、本を詰め込んだ段ボール箱を明け方近くまでひっくり返してたり、そのくせ読みかけの本のページは全く進まないみたいなことになってて、自分でも何がしたいのかよくわからなくなってますが、そんな状態で「人工島戦記」も読み進めちゃってるもんですから、もう第さん部の半ばまでズルズルっと読み進めちゃっていて、でも第に部を読んでて気になったことのメモ書きを放置してることがずっと引っかかってたり、第さん部は第さん部で気になってることがいくつか出てきてて、それで合わせて読みたくなってる「貧乏は正しい」を引っ張り出してきてたり、読みかけの本たちと読みたい本たちと読んでない本の山とを前にしてひとりで「も〜っ!」ってなってます。。。

いやいや、とにかく落ち着け、自分!
とりあえずひとつずつ片付けなさい!とー

はい、そういうわけで気を取り直して、先日のメモを手元に置いて「人工島戦記」の第に部を読み直しです。

第に部を読んでいて気になってたのが以下でした。
①運動や活動の始まり方、パワポ化されていない時代の企画の始め方始まり方
②テツオの母の「女性活動」の記載における橋本治の皮肉たっぷり加減
③テツオの小学生の頃の思い出、登校拒否のヤマモリくんのこと
④テツオの母の旧姓が「カネダ」であることに意味があるか?
⑤テツオのパンフ作り、文章における文体と人称のこと

まずは①と⑤について。
第に部では、テツオたち大学の仲間5人集まって、人工島反対活動を開始しようとしているところなんですが、運動の趣旨を人に説明できるものを作ろうということになって、テツオがワープロでパンフレットの文章を作らさせられることになるんです。

テツオはここでパンフの文章を、である調にするかですます調にするかみたいな文体のこととか、主語を「ぼくは」にするか「みなさんは」にするかといった人称のこととか、人工島に関するファクトの数字とか主張のかたまりをどのように繋げていくかとか、文章の結びをどう着地させるかとかにすごく頭悩ませることになるんですけれど、これ、今の大学生たちだったら、パワポかキーノートのスライドに「問題提起」「いくつかのファクト」「提案:改善案」「結論:メッセージ」みたいなテンプレ貼り付けてチャチャっとこなしちゃうと思うんですよね。

テツオと今の大学生たちの比較における要領の良し悪しみたいなことはもちろんあるんですけど、それを横に置いてくと、同じメッセージを伝える場合であっても、使うツールによって考慮すべき点がずいぶん変わるなという点に自分としては興味を持ちました。

テツオの作ったパンフレットの文章は友人のキイチに以下の二点でダメ出しされちゃうんですね。

まず一点目は「この文章、テツオらしくなくて、まるで市民運動のパンフみたい」と。
二点目は「人工島問題に関心がある人には届くけど、最初から関心のない人が読みたいと思う文章ではない」という点。

これ、パワポやキーノートでの資料作成であったなら、一点目の「らしさ」という点はあまり問われないように思うんですね。
企画内容に対して「らしさ」を問われることはたまにあるとしても、ナラティヴや表現についてはほぼ問われないと思います。

そして二点目は、(文章の)スタイルの問題としてではなく、ヴィジュアルがキャッチーかとか直感に訴えるかとか、(おもにデザインの)スキルの話として処理されるように思います。

どちらが良いとか悪いとかの良し悪しの話ではなく、自分のやりたいことを人に説明するという場合に、文章からスライド形式のものへとツールが変わることによって、
・「らしさ」とか「人称」とか「スタイル」とか、語り手が誰であるかということが問われなくなる
・ファクトやキーワードのデザイン的な配置が重視され、書き出しから最終着地に至るリニアな文章のつながりやコンテクストの厳密性があまり問われなくなる
〜と言った変化がおそらく90年台からY2Kを経て現在に至る時間の経過の中であったんだよな、と、この「人工島戦記」の第に部を読んでいてあらためて認識しました。

これは根拠のないただの推測なんですけど、「知性の転覆」「バカになったか日本人」「そして、みんなバカになった」などの著作で、晩年近くに橋本さんがずっと指摘されていた、日本の、世界の「バカ化」と上記のような変化って、何か関係あるんじゃないかなぁとおもうんですけど、どうでしょう。。。?

#人工島戦記 #橋本治

20220702「人工島戦記」第三十九章〜第六十章、「ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」

6月の終わりから真夏の陽気、猛暑を通り過ぎて酷暑とでも言いたくなるような暑さで、こういう時、在宅ワークで良かったなぁと思うものの、一方で仕事が忙しいと夜中の1時2時過ぎまで作業できちゃうのは困ったものです。

そんなこんなで先週も朝から夜中まで仕事仕事の一週間だったもので、金曜の夜、「うう。。。本が読みたい、橋本治が読みたい。。。」と、2時回った頃合いから明け方近くまで、コーヒー飲み飲み「人工島戦記」を読んでました。

あまりの面白さに立ち止まるのを忘れて、第に部をほぼ一気に読んでしまい、「じっくりゆっくり寄り道しながら読むつもりなのに、いけないいけない」と無理矢理ページを閉じました。

読みながら、「ちょっと気になるな〜」とか「ああ、これは少し考えなきゃいけないぞ」と思ったことがいくつかあったので、忘れないうちにとりあえずメモしておいて、これからひとつずつ考えることにします。

第に部でメモしとかなきゃと思ったこと
・運動や活動の始まり方、パワポ化されていない時代の企画の始め方始まり方
・テツオの母の「女性活動」の記載における橋本治の皮肉たっぷり加減
・テツオの小学生の頃の思い出、登校拒否のヤマモリくんのこと
・テツオの母の旧姓が「カネダ」であることに意味があるか?
・テツオのパンフ作り、文章における文体と人称のこと

さて、上記一つずつ考えていこうかな、ではあるのですが、いまこれを書いている土曜日日曜日と二日間外出しっぱなしの出先なもので、「人工島戦記」が手元に無く(さすがにあのデカさ重さの本は持ち歩けないので。。。)、来週ゆっくり考えることにして、今日は今まで気になってたけど放置してた問題、「人工島戦記」の副題についてもメモしておこうかな、と。

この「人工島戦記」には「あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科」という副題が付いていて、橋本治読者ならすぐに「ふしきとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件」を思い出したと思うのですが、この二作品間にはなんらかのつながりがあるんだろうか?というのがずっと気になってまして。

「〜殺人事件」は1983年刊行で、自分は高校の頃、80年代後半に確か読んだのだったと記憶してますが、あの「ええっ?そんな理由で殺人事件を起こしたりするの?」という、ある意味衝撃的な真犯人とラストは覚えているものの、それ以外のディテイルはかなり記憶があやふや。。。

「〜殺人事件」読み直そうと思ったんですけど、「人工島戦記」をある程度読み進めてからでないと二作品間の関連ありなしについて判断できないかなと思って後回しにしてました。

とは言え、第に部もそろそろ読み終わりなので(主役たちはまだ大学の談話室でウダウダしてるばっかりで、反人工島活動全く始まる気配がしませんが)、「〜殺人事件」の再読始めました。

再読してすぐにいろいろ思い出しました、そうでした、そうでした!

「〜殺人事件」の主人公は田原高太郎で、「コンバンワ、タワラ・コータローです」って言うのがネタなんでしたね笑

#橋本治 #人工島戦記 #ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件 

20220618「人工島戦記」第三十二章〜第三十九章、「橋本治『桃尻娘』論」

この一週間仕事が忙しくて、全く「人工島戦記」を手に取れていなかったので、やるべきことをひととおり終えた土曜日の夜、「今日こそ心おきなく読み耽るぞー!」とページを開いたものの、平日に我慢してた「あの本も読みたい」「この本も気になる」みたいな思いが噴き出してきちゃって、「人工島戦記」を数ページ読んでは、あっちの本も読み始めてみたりこっちの本も開いてみたりと、我ながら落ち着きないこと甚だしいなと呆れてます。

そんな感じで今読み終えたのが、「文學界」6月号に掲載の千木良悠子「小説を語る声は誰のものなのかー橋本治桃尻娘』論」。
約50ページにわたって、千木良さんの橋本治への愛と「桃尻娘」への思い入れが溢れまくっている評論でした。

6部にわたる桃尻娘サーガのあらすじを適宜紹介しつつ、当時の時代背景を説明したり橋本治の問題意識を解説したりと、橋本治そして「桃尻娘」のファンにはたまらない文章なんですが、一番のテーマはタイトルにもあるように、「桃尻娘」における語りの構造と語り手の問題を、橋本治が好きで影響も受けたと語っている久生十蘭谷崎潤一郎の作品を引用しながら読み解いていくというものです。

読まれた方ならご存知のことですが、「桃尻娘」は途中まで各章ごとに登場人物たちが話言葉の一人称モノローグでストーリーを語る構成になっていて、登場人物の性格やキャラクターに応じて、饒舌に喋り倒す章あり、「・・・」が無限に続く章ありといった感じなんですが、第4部になって突然「この小説の作者(かみさま)」が登場して三人称の「ですます調」小説に変わるんですよね。

千木良さんは、この「作者の声」というのは一体何なのか?と言う問いを立てたうえで、情景描写によって心理描写をする和歌の手法を説明したり、「桃尻娘」における情景描写の素晴らしさをいくつか挙げたりする流れのなかで、「作者の声」というのは「現代の日本語の話し言葉」を習い覚えた「日本文学史の声」なのではないかと論を進めています。

なるほど〜
確かに、小説に限らずどのジャンルにおいても、その作品の内部世界を超えたより大きなものが直接呼び込まれていると感じられる作品ってありますもんね。

そんなこと考えながら「橋本治桃尻娘』論」を読み終えて「人工島戦記」に戻りましたら、ちょうど第いち部の最終章である第三十八章の後半あたりで作者が頻繁に顔を出していて、「ここで何か感慨めいた一行を書き足しといた方が、小説らしくなるかなァ」なんてことを言っていたり。。。

この作者(かみさま)も、やがて橋本治という実作者を超えた存在として何かを語り始めるのか、そしてその結果「人工島」の世界に何を運び込んでくるのか、そんなことも意識しながら第に部以降も読み進めていこうと思います〜

#橋本治 #人工島戦記 #桃尻娘

20220611「そして、みんなバカになった」

「人工島戦記」を読んでいて、九〇年代と〇〇年代以降で「バカ」の定義や内実、あるいは橋本治の「バカ」に対する評価に変化があったのかも?と思い、「そして、みんなバカになった」を読みました。

結論から言うと、本書に「バカ」の成り立ちについての記載はありましたが、直接に「バカ」の内容の変化への説明はありませんでした。

アテは外れましたが、本書も考えさせられることや教えられることが多く、楽しんで読み終えました。

まず、「バカ」の成り立ちに関して書かれた章からキーワード的なものを拾うと、こんな感じ。

・日本人はバカになったという話の前段階は一九八〇年、さらに七〇年代から
・お笑い芸人にバカだといじられて喜ぶ風潮
・大学のレジャー化、私大のテニスサークル
・マンガブームの市民権、オタク化、大人にならなくてもいいという雰囲気

ああ、見覚えのある景色、そして思い当たるフシだらけだ。。。

この流れと、日本が豊かになっていった流れとは、やはり相関があると述べたうえで、

豊かになっていくプロセスとバカになっていくプロセスはほぼ同じだが、バブル以降豊かになっていくプロセスがなくなりバカになっていく方面ばかり目立つようになった

〜と。

ん〜、豊かになることとバカ化は相関があるのに、豊かでなくなってもバカ化は止まらないというのはなんでなんでしょうね。。。?

豊かでなくなることに関しては、こう言う文章もあるんですね。

一九九一年から四年間、「ヤングサンデー」で『貧乏は正しい』という連載をしていました。自分としては、「日本の経済が破綻したんだから、週刊漫画雑誌の読者が貧乏であるのは当然」と思っていたんですね。つまり、経済が破綻したという自分たちの現状を肯定できなかったら、何もはじまらないだろうという意味をこめてこういうタイトルにしたんです。これには「貧乏は正しいけれど楽しくない」というオチもつくんですね。

ここで言われているのは、貧乏であるという現状を肯定することには何かをはじめられるポテンシャルがある、ということですよね?

この「現状認識」と「何かをはじめるというアクション」が、(楽しくないけど)バカ化と別のベクトルである、ということなんですかね?

ちょうど、上記引用の前には

バブルが弾けた一九九二年のころは、今もペンディングになっているけれども日本の地方都市をテーマにした長編小説『人工島戦記』を書くために某地方都市にいて、

と言う文もあったし、次は「人工島戦記」と並行して「貧乏は正しい」読み返してみようかな。

「バカ」の問題は他人事である前に、切実に自分ごとなので、しっかり考えなきゃです。

なんせ、こんな怖いことも橋本さん仰ってますし。。。

どこまでもバカになると、やっぱり人間滅びますからね。

#橋本治 #人工島戦記 #そしてみんなバカになった

 

20220609「人工島戦記」第二十一章〜第三十二章、「そして、みんなバカになった」

先日来、この「人工島戦記」のモデルと思われる福岡の人工島、福岡市アイランドシティに関わる資料類を閲覧してたらこれがなかなか面白くて、ついつい「人工島戦記」の方をほったらかしてしまいました。。。

本末転倒ですね笑

で、久々に「人工島戦記」の続きを読み始めたら、テツオとキイチのほかにも登場人物〜同じ大学の同級生たちシラン、カンノ、タナカ〜が増えたうえに、ヒロイン、になるのかな?イケイケギャル(って言葉も時代を感じますね)のモクレンも登場、ずいぶんと賑やかになってきました。

彼らは大学の談話室で、市の人工島計画が杜撰なのではないかとか、逆にそれを告発する雑誌にはちゃんとした根拠があるのかとか、そういった議論をしているのですが、その中で「(雑誌の根拠なんてなくてもいい、なぜなら)オレが納得したからだよ。オレはそんなにバカじゃないんじゃないかって自分では思ってたしー」というなかなかなセリフが出てきます。
(自分が「この子のことはイマイチわからん」と思っているキイチくんのセリフです。。。)

それに対して地の文は

ここにいるのは“デカルト”だ。
「我思う、故に我存り」が更にヤクザになると、「オレは分かった、モンクがあるか?」になる、「オレは信じる、モンクがあるか?モンクがあったら、オレがバカだということを合理的に証明してみろ」というのだから、この近代合理主義以後の“デカルト”はすごい。

と言っていて、ここでの橋本治は、「自分はバカじゃない!」から考えを進めるスタイルに対してあまり否定的ではないんだな〜と。

自分、橋本治の晩年の著作の中では「自分がバカだということを自覚するところから始まるんだ」というようなことを言われた記憶があって、橋本治の中で「バカ」に対する考え方が変わったのか、あるいは「バカ」の意味合いや内実が時代とともに変化したのか、いずれにしても、「やはりこれは橋本治のバカ関連本を並行して読まねば」と思い、「そして、みんなバカになった」を本棚から引っ張り出してきました。

買ってすぐにパラパラっと目は通したのですが、今回あらためてじっくり通読です。

それにしても、帯の「21世紀 バカの最終局面に入った日本へ」って、かなりのインパクトですけど、これがただの煽り文句じゃなく、こちらの実感として「確かに。。。」と思えちゃうあたりが、まさに「最終局面」なのかもですね。。。

#橋本治 #人工島戦記 #そしてみんなバカになった

20220530「人工島戦記」第十四章〜第二十一章

昨日一昨日と先週末は朝からフェスに遊びに行ってたり、夜も遅くまで外食してたりで、丸二日間全く「人工島戦記」読めてませんでした。
当たり前っちゃ当たり前の話ですけど、ゴツくて重い本は家にいる時間が確保できないと読み進められないものですね。

で、今日になって二日ぶりに「人工島」読みながら、主人公として紹介されたテツオとキイチの二人のことを考えてます。

テツオがどんな男の子なのかは、なんとなくですけど、少しずつ理解できてきたような気はしてるんです。物事の理解の仕方とか考え方とか。

一方、キイチについては、自分は彼がどんな男の子なのかまだちょっとよくわからないなと言う感じ。

彼がパッと理解しちゃうことと、逆に理解できずに考えちゃうことと、そのあたりの構造が自分のそれとは大分違うな〜という印象です。

これから読み進めていく中で、彼のことももっと理解できるようになるのかな?

今日読みながら考えてたことのもう一つは、この話のモデルとなった地域について。

自分は、小説のモデル探しってあんまり興味なくて、フィクションはフィクションとして楽しみたいので、できればモデルのことはあまり知りたくないな〜と思ってるくらいなのですが、それでも、表紙にも印刷されてる人工島周辺の地図とか本文の記載とか見てると、この「人工島」はやっぱり福岡の人工島だよな〜と。

で、そうなるとやっぱり、福岡の人工島ができるまでの経緯とかも知りたくなってきちゃって、福岡市の「アイランドシティ資料集」と言うサイトに掲載されている資料をあれこれ拾い読みしてるところです。

小説ももっと読み進めながら、これらの資料もひととおり目を通して比較してみたら、なんかちょっと楽しそうな気がしてきました。

#橋本治 #人工島戦記

20220526「人工島戦記」第十一章〜第十四章

橋本治の本を読んでいる時はいつも、本文を目で追って内容を把握するのと並行して、自分と橋本治の対話、あるいは自分と自分の対話みたいなものが次から次へと頭の中で続いている感じがします。

この対話に意識をフォーカスしていったん本文追わずに立ち止まるのか、それとも対話は頭の中で流しながら本文追い続けるのかは、その時の気分の影響もあるとは思いつつ、多くは本文の文体の持つ速度みたいなものに依っているようです。

印象としては自分の場合、前期〜中期の作品は立ち止まらずに読み進むことを、後期の作品は立ち止まって頭の中の対話にフォーカスすることを促されていると感じることが多いように思います。

評論で言うと「三島由紀夫とはなにものだったのか」とか「小林秀雄の恵み」あたり、小説だと「巡礼」あたりが自分の中では、立ち止まれない/立ち止まるの境になっているような気がします。

そういう意味では、この「人工島戦記」、少なくとも今読んでいる第いち部は明らかに前期作品の文体の持つ速度で書かれているようで、いろんな対話が頭の中で続いているのに、本文追うことを立ち止まらせてくれない、グイグイと先へ先へ読み進めさせられてしまう感じです。

自分は小説を読むとき、文体が持つ速度とグルーヴに身を任せる悦楽を遠ざけられない性質なので(決して研究者にはなれないタイプ笑)、とりあえずはこのまま流れに乗って読み進めちゃおうかなと、今は思っています。

一方で、「人工島戦記」を読み終わらないように読み進めたくて始めたこのブログですから、頭の中で流れている対話や、意識の上に浮かんでは消え消えては浮かぶうたかたも、出来るだけ取りこぼさないように拾いたいので、メモ書きくらいは残しておこうかなと。

で、第七章「意識の低いバカ息子は自問する」に戻って、「バカ」について考えたことなど。

ここで橋本治は、主人公テツオに自分自身を「意識が低いバカ息子」と言わせているけれど、バカというならばテツオより、彼の母親、環境保護活動に肩入れしている、意識の高いヨシミをこそバカとして描いているのは明白で、同じ「バカ」にも「発展途上だから今はバカ」と「話が通じないバカ」とがあってーみたいなことを言ってたのはどの本だったっけ?と思うも思い出せず、後で「勉強ができなくても恥ずかしくない」「バカになったか、日本人」「知性の顚覆」あたりを読み返そうかなと思ったりしました。

と書きながら少し引っ掛かっているのは、橋本治がヨシミをバカにしながらもバカと言ってはいない点。
それってただ単に、こういうタイプを怒らせたら怖いからかもしれないけれど、もしかしたらそうではなくて、問題は彼女がバカかどうかという話ではなく、男と女が違うロジックで話しているから理解し合えないという点にあると言いたいのかもしれないなとか、だとしたら「あなたの苦手な彼女について」を再読すべきかもしれないな〜と思ってみたり。

#橋本治 #人工島戦記